今回は大谷翔平選手の『中学時代』にフォーカスしてみようと思います!
どんな中学時代を過ごされてきたのか非常に気になるところですよね。
現在、メジャーリーガーとなった大谷選手は、きっと学生時代、勉強以外は全て、野球に時間を注ぎ込んできた事でしょう。
二刀流誕生のきっかけにもなった、大谷選手の青年期を見ていきたいと思います!
大谷翔平選手の中学時代! 中学校や球速、身長など
大谷少年が野球を始めたのが、小学2年生の終わり頃。そこから父との練習に明け暮れる中、中学に上がると『リトルリーグ』に所属。
大谷選手の父は元々、社会人野球の選手だったので、引退後はリトルリーグにコーチとして入っていたそうです。兄も一緒に野球をしていた。
そして母においてはバトミントン選手だった。絵に書いたようなスポーツ一家で育ったようで、大谷選手はその血を受け継ぎ、その類いまれな才能と努力により、中学時代にはピッチャーとしてなんと【120km/h】のボールを何度も投げていたようです。バッターとしては、ただ闇雲に打つのではなく、〝引きつけながらホームランを打つ〟というようなプロ顔負けの技術的なバッティングを、たくさんしていたという事で大変驚きです。
身長が急激に伸びたりと、若い頃の自分自身の身体を自由に使いこなすというのは至難の技なのに、使いこなせていたのは凄いの一言です。
習い事は、テニス・サッカー・水泳など、他にも様々な事をやっていたようです。その中でも特に、家族の勧めもあって『水泳』に力を入れていたみたいですね!
ちなみに水泳のレベルは、オリンピックに出場してもおかしくない実力があったそうで、野球をやっていなかったら、水泳選手としてオリンピック出場されていたと思います。
水泳には基礎体力アップや、肩や股関節の可動域などを広めるという効果が期待出来るので、現在に活かせているのは言うまでもないですね。
勉強の方も優秀だったようで、好きな科目は日本史で、幕末。出身中学は〝奥州市立水沢南中学校〟で、偏差値も高いです。スポーツも勉強も優秀な上、当時も容姿抜群だったので、大谷選手が廊下を歩くだけで、黄色い歓声がよく挙がっていたと、同級生達からの証言がありました。
中学時代のエピソード
中学時代から、あらゆるエピソードがあります。まずは『信号機破壊事件』です。中学時代から規格外のパワーを誇っていた大谷選手。ホームランを打つのが好きで、場外ホームランをよく打っていた。
するとある日、何度も打ちすぎて飛距離が伸びすぎたせいか、届くはずのない場所にあった信号機にガン!と当たってしまい、信号機が壊れるという伝説を残しています。
そしてさらにもう1つ有名なのが、ピッチャーとしてのエピソード。小学時代には110km/hをマークし、中学時代には130km/hを連発と、当時キャッチャーをしてた同級生は、球が速すぎて正確にキャッチ出来なかった事も多かったという。大谷選手と言えば、花巻東高校時代のインパクトが強い方も多いと思いますが、中学時代でも怪物だったのは納得です。
大谷選手の家族構成
あまり触れられていない『家族構成』について紹介します。
家族構成としては、父と母、兄と姉という5人家族です。
父は社会人野球選手。母はバトミントン選手。そして兄も実は野球をしていましたが、甲子園出場も出来ず、社会人野球に入団し、
そのキャリアを終えてからはコーチとして現在も就任されているそうです。父親と同じ道を歩んでいますね。
姉はバレーボールをやっていたそうで、大谷選手の身長からして、高身長な上、きっと美人だろうと想像出来ます。
スポーツ一家に生まれたのは、結果的に大きかったと言えますよね!
当時所属していた野球チーム
大谷選手が当時、所属されていたリトルリーグは2つあります。
岩手県にある【水沢リトルリーグ】と【一関リトルシニア】です。
・水沢リトルリーグ→小学校時代に入団。
・一関リトルシニア→中学校時代に入団。(全国大会に出場。)
大谷選手の父は、コーチとして就任し指導を行なっていたそう。
当時、毎回試合に出られるとは限らなかったので、今日はピッチャー。明日はバッター。明後日はファーストなど、色んなポジションに挑戦していったと。
おそらく、このリトルリーグの時の経験が、二刀流への道を作ったんですよね。少年野球チーム、中学野球、高校野球は〝4番でエース〟なんてのはよくある話です。
そう考えると、幼少期の初めての体験や経験は子供にとって、後の人生においてすごく重要で、大切な事なんだなとつくづく思います。
二刀流誕生のきっかけ
昔のプロ野球といえば、両方をやると中途半端になってしまうという理由で、バッターをやるかピッチャーをやるかのどちらか1つだけ選択しなければいけないという風潮があった。
何より「そんな事は出来っこないだろ!」とも決めつけられていた。しかし大谷選手は、幼少期(リトルリーグ)から「両方で試合に出たい!」という考えを強く持っており、高校生の頃には「両方できる!」と甲子園でも大活躍。プロになる際に、その思いを各球団に話した所【日本ハムファイターズ】が理解を示した。
この事が大きかったので、日本ハムへの入団を決めたという。そして二刀流の挑戦が始まった。当時の監督は栗山英樹監督というのもまた、大谷選手は持ってますよね。
そして、プロに入ってからはすぐに二刀流の頭角を現し、否定的な言葉を次々に覆し、今では二刀流の挑戦を促す指導者が急増しています。
不可能と言われてた事を可能にした事や、人と違う事をブレずにやってきた大谷選手には、ただただ脱帽です!これからも応援していきたいです!
まとめ
いかがだったでしょうか?中学時代だけでも、語りつくせない程の魅力満載の大谷選手。
家族の支えもあったからこそ、今の大谷選手が誕生したと思うと、家族のサポートや育て方は本当に大切ですよね。
現在、学生のお子様がいらっしゃる方は、是非とも色んな体験・経験をさせてあげて欲しいと思います。
過去に積み重ねた事が未来に必ず生きると思いますので、大谷選手の中学時代を参考に、たくさん挑戦していけたらいいですよね!
最後までお読み下さり、ありがとうございました。